長崎浩『行為の意味論 歩きながら考える』雲母書房、2004年。
今日は朝、歩きながら歩くこと自体の意味を考えつつ、この本に視線を走らせていた。
著者の専門は、リハビリテーション医療であり、そのリハビリテーションにおいてこそ「歩くこと」の意味が問われるのである。
「歩くことは環境を生態学的世界として経験するだけではない。歩くことはまた歩く自分を知ることである。自己は身体の他にあるのではない。現に歩いており、歩いていることを知っているこの身体が、すなわち歩く私という存在のあり方なのである。こうして世界の安定性と信頼性が、歩く身体の自己確認になる。」(p.23)
またこの歩くことは、技術知としても語られる。
「・・・テクノロジー(科学技術)とは別の意味で、技能はまた技術知(スキル)である。歩きながら歩くことを知っている暗黙知とはこの意味で技術知である。誰もが身に着けていながら、辞書を引く学習ではなく、歩くことによりはじめて身につくようになる隠された知の次元がここにある。」(p.24)
こんなふうに歩くことを考えてみると、歩くことが楽しくなるか、あるいは足を一歩前に出す毎に、新たな発見が生み出されるかもしれない。他方で、当たり前のように歩くことが難しくなるかも・・・。
後半では、ジェームズ・ギブソンの視覚の生態学的アプローチにも言及している。
アフォーダンスというギブソンの造語の問題点と発見的な視点が分析されており、学ぶことが多い。
「動くためには知覚しなければならないが、知覚するには動かなければならない」。(p.184)
「・・・見ることは本来動作することである・・・。『周囲を見回し、何か興味のあるもののほうへ歩いてゆき、あらゆる側面からそれを見ようとして、その周りを動き、またある情景から他の情景へと場所を移動する』。これが『自然の知覚』のあり方だという。・・・ギブソンの有名な造語、アフォーダンス(affordance)も、動物が行動するとき環境から収集している動作可能性の情報である。このような自然な知覚のあり方をそのままに研究することが、視覚の生態学的アプローチと呼ばれた」。(p.184)
「運動とアフォーダンスの関係は意味のある相関関係であり、因果ではなく「すなわち」の関係である。アフォーダンスを実現するように動物は動く。動物が動くのは、アフォーダンスを実現するような仕方によってである。行動様式がそのように進化している。」(p.214)
アフォーダンスについては、いろいろな批判がある一方で、興味深い点も多い。一度じっくり読んでみたい。