月の光

7/06/2006

七夕★

もうじき七夕ですね.毎年,笹の切り出しに行って,周囲の人といっしょに飾付けをして楽しんできたけど,今年はちょっと難しい.雨が多いからだけじゃなくて,それが必要な環境にいないから.一件,自分の意志で,自分で楽しむためにしてきた行事も,実は,それ自体に意味があったのではなくて,状況や環境に促されてしていたのかもしれない・・・・.

最近『デザインの生態学 the ecological approach to design』(後藤武・佐々木正人・深澤直人著,東京書籍,2004年)を読み始めた.デザインも,能動的にされるのではなくて,何か,素材や状況や人間関係に促されて行われる営みであるようだ.
詳細の紹介は,後ほど.

6/27/2006

歩くことは考えること!

長崎浩『行為の意味論 歩きながら考える』雲母書房、2004年。
今日は朝、歩きながら歩くこと自体の意味を考えつつ、この本に視線を走らせていた。
著者の専門は、リハビリテーション医療であり、そのリハビリテーションにおいてこそ「歩くこと」の意味が問われるのである。

「歩くことは環境を生態学的世界として経験するだけではない。歩くことはまた歩く自分を知ることである。自己は身体の他にあるのではない。現に歩いており、歩いていることを知っているこの身体が、すなわち歩く私という存在のあり方なのである。こうして世界の安定性と信頼性が、歩く身体の自己確認になる。」(p.23)

またこの歩くことは、技術知としても語られる。
「・・・テクノロジー(科学技術)とは別の意味で、技能はまた技術知(スキル)である。歩きながら歩くことを知っている暗黙知とはこの意味で技術知である。誰もが身に着けていながら、辞書を引く学習ではなく、歩くことによりはじめて身につくようになる隠された知の次元がここにある。」(p.24)

こんなふうに歩くことを考えてみると、歩くことが楽しくなるか、あるいは足を一歩前に出す毎に、新たな発見が生み出されるかもしれない。他方で、当たり前のように歩くことが難しくなるかも・・・。

後半では、ジェームズ・ギブソンの視覚の生態学的アプローチにも言及している。
アフォーダンスというギブソンの造語の問題点と発見的な視点が分析されており、学ぶことが多い。
「動くためには知覚しなければならないが、知覚するには動かなければならない」。(p.184)
「・・・見ることは本来動作することである・・・。『周囲を見回し、何か興味のあるもののほうへ歩いてゆき、あらゆる側面からそれを見ようとして、その周りを動き、またある情景から他の情景へと場所を移動する』。これが『自然の知覚』のあり方だという。・・・ギブソンの有名な造語、アフォーダンス(affordance)も、動物が行動するとき環境から収集している動作可能性の情報である。このような自然な知覚のあり方をそのままに研究することが、視覚の生態学的アプローチと呼ばれた」。(p.184)

「運動とアフォーダンスの関係は意味のある相関関係であり、因果ではなく「すなわち」の関係である。アフォーダンスを実現するように動物は動く。動物が動くのは、アフォーダンスを実現するような仕方によってである。行動様式がそのように進化している。」(p.214)

アフォーダンスについては、いろいろな批判がある一方で、興味深い点も多い。一度じっくり読んでみたい。

6/26/2006

身体と病

小倉孝誠『身体の文化史??病・官能・感覚』中央公論新社、2006年6月を紹介したい。

この本は、「おもに近代フランスの身体表象をめぐるさまざまな問題系について考察を展開した試み」であり、「文化史と文学史の接点で行われた身体論」と自ら解説して本論に入る。

著者は、ヨーロッパの歴史(文化史と文学史)を読み解きながら、時代によって異なる病の意味を次のように記述している。「病やそれにともなう苦痛は生理学的な現象であると同時に、文化的、社会的に構築される表象」でもあり、「人々が病をどのように把握していたかということも、病という現実の一部なのである」(p.167)。また「病は科学的な説明や合理性とは無縁なところで、さまざまな神話や幻想を紡ぎ出し」(p.167-168)てきたが、医学の言説や臨床学的な知識の普及、そして病のなまなましい現実が、神話に変更を迫る。それは「社会的現実の一面だった」(p.207)と。

私たちが経験している病も、今のこの時代の、社会状況の、さらには文化や医学の発展の中で意味づけられていることだろう。

愛の旅人 シャガール

昨日、愛の旅人 シャガール(Marc Chagaii-Journey into lov)を堪能してきた。4月から生活圏を変えたので、場所と情報がうまくかみ合わず出不精になっていたが、新聞やポスターなどのメディアに誘われてとあるミュージアムへ。
最終日だったためかわからないが、会場はすごく混雑していたので、遠くから眼差し、ぐっと近づいて目で触れることを楽しみ、解説を読んだり時代背景を考えたり・・・・、というゆとりをもてなかったのが残念だった。しかし、思わず引き込まれてしまう絵の前では、譲らずにそれを堪能した。
今回、時間をかけて鑑賞したのは、『ダフニスとクロエー(Daphnis and Chloe)』という恋の物語とシャガールの絵の交差である。一枚いちまいの絵を鑑賞しながらその脇に数行でしたためである物語をおっていくと、絵に引き込まれつつ同時に物語にも導かれていく、物語の世界に浸っているのか、絵画を楽しんでいるのか、区別が付かなくなる時間の中に投げ込まれ、その時間を楽しむ。
絵画への集中が分散されるという考えも頭をよぎったが、様々な楽しみかたがあるというのもまた事実だろう。

こんな本も買ってみた。

ロンゴス著、松平千秋訳、マルク・シャガール絵『シャガール ダフニスとクロエー』岩波書店、2005年

6/23/2006

学ぶこととは。

ジーン・レイヴ&エティエンヌ・ウェンガー著、佐伯胖訳、福島真人解説『状況に埋め込まれた学習 正統的周辺参加』産業図書、1993年

この本も、しばらく前から読んでいたが、先ほど一通り読み終わった。
少し気になった言葉を引いておきたい。

正統的周辺参加 Legitimate peripheral participation(LPP)
「学習者は否応なく実践者の共同体に参加するのであり、また、知識や技能の修得には、新参者が共同体の社会文化的実践の十全的参加へと移行していくことが必要だということである。」(p.1)
「『正統的周辺参加』は、新参者と古参者の関係、活動、アイデンティティ、人工物、さらに知識と実践の共同体などについての一つの語り口を提供するものである。これは新参者が実践共同体の一部に加わっていくプロセスに関係した話である。」(p.1-2)
「周辺参加というのは、社会的世界に位置づけられていることを示す言葉である。変わりつづける参加の位置と見方こそが、行為者の学習の軌道であり、発達するアイデンティティであり、また、成員性の形態でもある。」(p.10-11)
「正統的周辺性というのは、権力関係を含んだ社会構造に関係している複雑な概念である。人がより一層強く参加するように動いていく場として、周辺性は権力を行使する位置にある。」(p.11)

この引用にもあるように、私たちの日常的な活動の多くは、学習という側面をもっており、さらにその営みは、その場で働き出している「権力」と密接に絡み合っているのである。
自分の活動がこのようになっているのかを想起してみたいと思う。

日本語の間のカタカナどう思います?

加賀野井秀一『日本語を叱る!』(ちくま新書,590,2006)を、ここ数週間、湯船に浸かりながら読み進めてきた。
ついつい、日本語を話しながら、その間に外来語を持ってきてしまったり、それが略語だったり。立ち返ることのできる言葉があるならまだしも、どういう経緯で何をもとにできた言葉なのかが分からない、そのような言葉も使ってしまう。このような言葉は、自分が所属しているある仲間内の中では通じるが、それを離れる途端に通じなくなる。このことから、こうした言葉は、知らぬ間に仲間内以外を排除する機能を発揮していたり、同時に、話す者がそうしながらタコツボ化している、そのような指摘をした本である。
テニオハのもつ幾つかの働き、その問題性を日本語の折衷語という特徴から指摘する。
まだまだ多くの指摘があるが、問題点についてはこのくらいにして、日本語の未来についての記述も抜粋しておこう。

・・・・「翻訳語としての日本語」「二重言語としての日本語」といった視点からは、まさしく、わが日本語の未来を考えるための基本方針が導き出されてくるはずです。そう、私たちは今後とも、あえて諸言語のはざまに身をおき、徹底してこの二重性を生き抜いていくこと、おそらく方針はそこに極まるだろうと思われます・・・(表紙より)

『明日の記憶』の世界

数日前から、しばらく読めないままになっていた『明日の記憶』を読みはじめ、昨晩、読み終わった。
若年性アルツハイマーと診断された主人公の一人称の世界に引き込まれるように、最後のページまで進んだが、様々な工夫が施されているがゆえに、読むものが自分自身も佐伯になったような錯覚に陥る。佐伯の感情や思考が、説明されているのではなくて、淡々と語られているのであるが、それが返って、私の気持ちを掻き毟るのだ。途中からは読んでいる私自身にとっても、佐伯の経験と同様、そこで書かれている(起こっている)ことは事実なのか、幻覚か、作話かの区別がつかなくなってくる。自分自身の足元も揺らぎ始めてしまうような感覚に陥れられるのである。

「記憶」についての記述も興味深い。
「記憶は自分だけのものじゃない。人と分かち合ったり、確かめ合ったりするものでもあり、生きていく上での大切な約束ごとでもある」(p.214)

私の物忘れは、このところ気にならなくなったかな。

6/22/2006

繰り返し読んでしまう。

フランスの哲学者にメルロ=ポンティという現象学者がいるが、私はこの人の著した書物にとても感銘を受けている。ある文章を書くため、今回も彼の書籍の1冊である『目と精神』(みすず書房、1966年訳)を読み直してみた。もう5回ぐらいは読み返している。何度読んでも、新たな課題を突きつけてくる。

「科学は物を巧みに操作するが、物に住みつくことは断念している。・・・・現実の世界とはほんの時たましか顔を合わせない。」(p.253)
「・・・画家の視覚は〈見る〉ことによってしか、つまり視覚そのものからしか学べないのである。・・・眼はそれ自身、自らを動かす道具、自らに目的を案出してやる手段であって、世界からの一種の衝撃によって動かされながら、今度は手の動きによってその世界を〈見えるもの〉に組み立てるものなのである。」(p.263)

このような文章に触れつつ、ごちゃごちゃと考え事をすることが、至福のとき!

6/20/2006

認知症は深い!

小澤勲氏の著した『ケアってなんだろう』(医学書院、2006年)を読み終わった。内容の多くが対談形式になっており、その一つひとつの対話が個性的でとても興味深い。さらに、著者である小澤さんがお話された公開講座記録である「第?部 認知症を生きるということ」は、心に響く「物語」が多い。p.241?242の「3 物語を読み解く」は、とりわけ強く感銘を受けた。


小澤さんは、これまでにも既に、認知症に関する多くの書籍を上梓されている。どれも、認知症をわずらっておられる方の経験世界に錨を下ろし、そこから読み手に訴えかけるような内容になっている。

小澤勲『痴呆老人からみた世界』老年期痴呆の精神病理、岩崎学術出版社、1998年
小澤勲『痴呆を生きるということ』岩波書店、2003年
小澤勲・土本亜理子『物語としての痴呆ケア』三輪書店、2004年
小澤勲・黒川由紀子『認知症と診断されたあなたへ』医学書院、2006年

また、他の著者による認知症に関する書籍も数多く出版されている。

小菅もと子『忘れても、しあわせ』日本評論社、1999年
萩原浩『明日の記憶』光文社、2004年
阿保順子『痴呆老人が創造する世界』岩波書店、2004年
コンラート・マウラー&ウルリケ・マウラー著、新井公人監訳『アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡』保健同人社、2004年

認知症を患っておられる方々が、あるいはいずれ仲間入りする我々が住みやすい生活の場を、皆でき築いていくことが必要ですね。

5/25/2006

Bossa Nova

今日購入したCD

◆We Lobe Bossa Nova
◆Bossa Nova for Lovers
◆Fresca  

Bossa Nova dayでした。

自分のことかと思った

昨晩から読んでいるのは、荻原浩著『明日の記憶』、光文社、2004年

 読み進めていくと、自分のことを言っているのではないか、と不安がよぎる。私はまだ、40歳前だけれども、職場と住処、生活の仕方そのものを同時に変えた今年の4月から、物忘れがひどくなった。あえて、職場などが変わったことを書いたのは、物忘れの理由を、どこかに作っておきたかったのかもしれない。さらに物忘れを不安に思うのは、やはり忘れることは、「できていたことができなくなる」ということが、自分にとってよくないことだと思ってしまうからだろう。しかし、私たちは誰もが年を重ねるごとに、できなくなることが増えていく。もうずいぶん前から、「全速力」で走ることができなくなった。
 ここで待てよ!と思う。それは、無自覚に使ってしまった「力」という言葉が与える、「できる」という価値観。「できる」ということは、それほど重要なことなのだろうか。忘れてしまうことは、それほど苦にしなければならないことなのか。
 まだまだ50頁ほどしか読めてないが、この本からは、周囲の人びととの関係の中で揺れ動く、物忘れがはじまった頃の当事者の気持ちが、とても良く伝わってくる。きっと気づかないままに、私たちもその周囲の人の一人であったことだろう。

 今日は、もう少し先に読み進めることにしよう。